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日本の学校を考える最近の3冊

日本の学校について論じた最近の本を3冊まとめて紹介します。それぞれの著者の立場や視点、取り上げるトピックは大きく異なりますが、学校の守備範囲が広くなりすぎているという問題意識は共通しています。

  • 『欲ばり過ぎるニッポンの教育』(苅谷剛彦+増田ユリヤ、講談社現代新書)
  • 『学校は誰のものか-学習者主権をめざして』(戸田忠雄、講談社現代新書)
  • 『変えよう!日本の学校システム-教育に競争はいらない』(古山明男、平凡社)

『欲ばり過ぎるニッポンの教育』(苅谷剛彦+増田ユリヤ)は、教育学者とジャーナリストが、フィンランドの教育事情を見ながら日本の教育を論ずる対談本です。タイトルにもあるように、日本では教育に完璧や保障を求める「教育に対する絶対的な期待」が根本にあると指摘しています。
フィンランドの教育は、PISA(OECDの国際学習到達度調査)のスコアが一位だったことを受けて最近とみに注目されています。しかし、著者は取材を通じてフィンランドの教師の、「特別なことは何もしていない」という態度に触れます。授業にしても、「何か特別な教育の方法を取り入れているのかといえば、そんなことはない。日本で見たことがない、なんていうやり方はなかった…」そうです。むしろ、授業方法のようなミクロなレベルではなく、政策や社会全体が「ブレない」というマクロな姿勢の違いを見るのです。


『学校は誰のものか-学習者主権をめざして』(戸田忠雄)の著者は、公立高校校長、予備校校長などを歴任した教育アナリストです。
教育バウチャー制や評価に対する考え方に評者は賛成しませんが(例えば、教師は「学力テストで成績が悪ければ、自分たちの努力が足りなかったと反省…」するのが筋だと述べています)、教職・管理職経験者から見た現行の学校教育制度の問題は参考になります。例えば、不登校の本質がよく言われる「学びからの逃走」ではなく「学校からの逃走」であるというのは説得力があります。
冒頭で校舎のつくりを挙げ、正面玄関から教師が出入りして生徒は校舎横の昇降口から入る構成を、倒錯した《上から与える教育》の象徴だと述べているのが面白く、これは今回紹介した3冊で唯一施設に触れている部分です。


『変えよう!日本の学校システム-教育に競争はいらない』(古山明男、平凡社)は、欧米の様々な国の教育事情をふまえて、日本の教育の問題点を論じています。内容は、日本の教育の行き詰まり、日本の教育システムの問題、新しいシステムの提案の3部からなっています。
この本は「不登校は制度公害」という衝撃的な見出しから始まります。これは、日本では就学義務があるため、何らかの理由で学校に適応できずに登校しなくなる生徒「問題」になってしまうという意味です。しかし、ホームスクーリングが認められている国(アメリカをはじめとして、意外と多い)であれば、それは単に義務教育をどこで受けるかという選択肢の問題にすぎないわけです。
著者は学校をなくせ、と言っているわけではありません。標準的な教育に合わない生徒を受けるセーフティネットとなり、彼らが能力を伸ばせる場所、具体的にはオルタナティブ教育を制度的に認めるべきだと述べています。そして、学校を作るのが自由なオランダ、デンマーク、ニューランド、アメリカなどでは、そうした独自性の強いものを選ぶのは全体の1割ほどに落ち着くという研究を紹介しています。つまり、オルタナティブ教育を認めても標準的な教育は破壊されないというのです。


これら3冊は、いずれも学校・教師に対する期待が過重であると指摘しています。
戸田は、学校が機能集団ではなく生活共同体であるという前提を批判します。共同体だから学校が閉鎖的になると言うのです。また、「いまどきの先生は熱意や情熱を失いサラリーマン化している」という教師批判が出てくるのは、教師が「聖職」と見なされて過大な期待がかかるからだと述べています。 苅谷・増田は、日本では高校進学率が極端に高いがゆえに、その年代の青少年の進路選択や非行といった本来は「社会問題」であることが「教育問題」になっていると言います。フィンランドのように、義務教育後に学校に行かない生き方が選択肢として肯定され、そうした人生を選ぶ人が一定数いれば、学校がすべての面倒を見ることを期待されないはずです。日本では、学業以外の負担が大きすぎて学校を「呪縛」しているのです。
古山も同様に、学校が「しつけの責任も持ち、地域活動に関わり、部活動も引き受けている。日本の教育システムでは、家庭や地域の仕事まで、いつの間にやらぜんぶ学校が引き受けている」と述べています。さらに、「教師の仕事は、長期間にわたって一人で責任を負い行動する部分がたいへん大き」く、情報・技術・道具を多く必要としているにもかかわらず、的確なサポートを受けていないと言います。

学校に「教育サービス」を期待するのか、「生活の場」と考えるのか、社会の学校に対する見方は一様ではありません。そして前者は、「学び」を生徒と教師のタテの関係に帰属させ(学習は個人の知識・能力の獲得である)、後者はヨコのつながりによる共同的な活動と考える(学習は文化的・社会的活動である)という学習観の違いが根本にあります。また、戸田は教育に競争原理を肯定、古山は否定するというまったく逆の立場をとりますが、不登校が学校という制度の問題であるという分析は一致しています。
しかし、立場は違っても、学校がすべてを負うことはできないという認識は多くの人が共有しているのではないでしょうか。学校に何をどこまで期待するのか、学校は何が提供できるのか、考えさせられる本です。

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